弥彦競輪物語~弥彦競輪50年の足跡(10)

-弥彦競輪50年の足跡- (10) ファンそして選手にとって車券購入、競走意識に大きな影響を与えたのが平成7年4月から行われた事故点導入の競技規則だった。そのために落車件 数は大幅に激減したがその反面にデメリットも発生した。今回は事故点導入の流れから現在に至る過程を紹介する。 平成7年4月事故点制度を導入 ファンにとってゴールもしていないのに車券が紙クズ同然となる落車などの事故を減らそうと、競技規則の改正に取り組んだのが昭和 63年。その後も平成3年に改善されたが、なかなか落車の件数が減る状態になかった。...

弥彦競輪物語~弥彦競輪50年の足跡(9)

-弥彦競輪50年の足跡- (9) バブル崩壊以前から公営競技は売上ダウンという危機状態にあったが、バブル崩壊でさらに拍車をかけた平成4年以、競輪界も新たな試 みを打ち出しながら売上アップを図ってきた。また新潟県選手会にも70期代の精鋭が平成5年以降に数多くデビューを飾った。今回は平成5、6年の競輪界の 流れと新潟選手会の動きにスポットを当ててみた。 平成9年に車番連勝式を導入 JRAがファンのニーズにこたえようと馬券の種類を増やし、馬番連勝を導入したのが平成3年の秋。これによって、これまでにない高...

弥彦競輪物語~弥彦競輪50年の足跡(8)

-弥彦競輪50年の足跡- (8) 冬の時代から一気に新潟選手会を躍進させたのは阿部康雄の存在が大きかったと言っても過言ではない。今回は阿部にスポットを当てな がら、弥彦記念競輪の歴史を紹介する。 阿部康雄が素人脚自慢に出場 67期に合格した高野聡と川上秀明は名門吉田商を卒業と同時に競輪学校入りしたが、68期合格の阿部は自転車の経験がまったくない状況でのものだっ た。 競輪選手を志すきっかけとなったのが異色で、全国的に話題となった。当時弥彦では記念競輪開催の時にファン向けに素人脚自慢大会を行っていたが、その時に...

弥彦競輪物語~弥彦競輪50年の足跡(7)

-弥彦競輪50年の足跡- ( 7 ) 平成の時代に入って特別競輪の増設や、ふるさとダービーなどの新設でファンにより魅力ある競輪をと努力してきた競輪界。しかし、 世間の景気と同様で思うように売上アップにつながるものではなかった。今回は弥彦競輪を参考にして、その後の競輪界の対策はどうしたのかを紹介。また前回 述べた新潟選手会の冬の時期を解明するとともに、その後の選手会を紹介する。 平成3、4年にふるさとダービーを開催できた弥彦競輪は、施設会社などとの協力で施設拡大するなど競輪事業に積極的な姿勢を見せた。 会津、釧路に...

弥彦競輪物語~弥彦競輪50年の足跡(6)

-弥彦競輪50年の足跡- ( 6 ) 弥彦競輪物語も今回から昭和の時代を終えて、平成の時代に入ってくる。昭和60年には競輪競走の超目玉といえるKEIRINグラン プリが新設されたようにビッグレースが増して、ファンをひきつける競輪になった。今回はKEIRINグランプリや、ふるさとダービーなどが誕生した経緯 や、平成3年(91年)に弥彦で行われたふるさとダービーなどを、県選手会の足跡とともに紹介する。...

弥彦競輪物語~弥彦競輪50年の足跡(5)

-弥彦競輪50年の足跡- ( 5 ) 施行50周年を迎えた弥彦競輪。前回は昭和 年までの歴史を紹介したが、ここは再度53年の西宮オールスターで優勝した天野康博を詳しく取り上げながら、56年から60年までの新潟選手会を競輪界の 流れとともに紹介する。 昭和53年9月、第 回オールスター競輪。新潟からは天野康博、佐野正晴、渋川久雄笠巻清貴、天野尚の5人が出場。決勝は中野浩一、福島正幸、高橋健二、国持一洋、渡辺孝夫、...