-越後の闘将-
第三回

競輪学校時代はわずか2勝。まったく目立たない選手の卵だった天野康博さんは、1972年1月30日に29回生として無事卒業。4月16日に弥彦競輪場でデビューした。1着、3着で決勝進出。決勝 は同県同期の遠藤清彦さんを引っ張って、2着に粘った。 名うてのマーク屋としての印象が強いが、デビューしたてのころは、新人らしく、先行するか、できないかのバリバ リの逃げ選手。

「競輪の読みとかがさっぱりだったから…。どういう風に走ればいいとかがね。だから、ただ前へ出て、走ればいいという感じ。でも出てからも、どこで踏んでいけばいいとかがわからない」。
当時はA級がだいたい7、B級が3の割合の2層制。B級を2期経験し、A級に上がった。「B級の後半になってまくりを覚えて、何か流れに乗れるようになったかなあ」。

しかし、A級に昇級してみたら、先行してもズブズブ抜かれる始末。「上がってから 何場所目くらいかな。同期の選手が逃げて、たまたま、その番手の外にいる展開になったんです。そしたら、初めて準決を突破して、決勝に乗れたの。これはいいな、となった訳だね」。
それからだ。追い込み一本で戦い始めた。「それも番手の外。3番手が回れても、誰がこようと、その位置にこだわった」。
学校時代、人に言われるのが大嫌いだった男が自らやり始めた。

今回、天野さんに話を聞いて初めて知ったのだが、街道で自動車の後ろについて練習したのは天野さんが全国で初めて。「バン パーにちょこっ、ちょこっとぶつかってみても何ともなかったから。B級のときからかな、始めたのは」。地元の人も仕事の合い間に強力してくれた。
自動車をまくりにいって、 ぶつかって、田んぼに落ちたことも。「タイヤを引きなが ら自動車で誘導してもらう。 時速30キロでついていって、急に40キロに上げてもらう。さらに50キロとへという具合にスピードを上げてもらった」。
この練習方法を伝え聞 いた、競輪評論家で、往年の名選手・白鳥伸雄氏は雑誌に 「こんな練習は愚の骨頂」と書いたが、本人は「この練習が一番、力がついた」と言い切る。競り合いに一番大切なバランスをよくするのにも役立った。「人と同じことをやってもねえ。自分の練習を見つけたやつが強くなる。強い選手はみんなそう。それをやってから、バンクへ入る。でもそこでやる練習は、自分の場合は調整程度だった」。

「丸一日、練習のことしか考えていなかった」。そんな選手生活を送り、デビューして4年目の3月、千葉ダービーでG1(当時の言葉で特別競輪)に初出場を果たした。