-新潟県 名選手列伝④-

堀口 轟さん

大学に通いながら、選手生活をスタートさせて12年、今度は関東自転車競技会の職員として28年を過ごし、最後は新潟場外に7年 勤務。堀口轟さん(68)は立場の違う職場で、半世紀近くも競輪界で過ごしてこられた。「競輪ひとスジで生きてこられて幸せだった」と振り返る。

大学1年の夏休み、分水でその当時、盛んだった自転車競走大会に出場。いきなり準優勝を果たした。「兄(茂久)は競輪選手だったけど、いたずらで自転車 に乗ることはあっても、本格的なことは何もしていなかった」。ちょっとの練習で好結果。その年の10月に7期生の試験を受けて翌年の5月にはプロとして実 戦に臨んだ。

それからは学生と選手の二足のわらじ。「鉄は熱いうちに打てという言葉があるけど1年生の夏休みから秋にかけての練習であれだけの 結果が残せたから、そのまま選手一本でやっていたらと思うことはある」。今になって思えばと述懐するが、同学年の間で一目も二目も置かれた勉強を捨てるこ とはできなかった。

就職でも悩んだが、選手を続行。B級の優勝はあったが言葉は悪いがエレベーター選手。「B級で頑張って、A級ではトップを引いた方が収入はいい」とまで 考えていたが65年の6月に転機が訪れた。

「たまたま新潟の競技会に選手共済の申請に行ったら、今、選手の中から競技会の職員を募集しているから、堀口さんどうだ、と言われ て。何か雰囲気が受けなければ仕方ない感じになって」、1週間後に受験。合格の知らせを受けて、2日後には前橋へ。

妻や子供、両親を新潟に置いて、前橋での単身赴任。「学生時代以来、あんなに勉強したことはなかった」。毎晩、規定集を読みふける日々。もちろん、競技 会に移った立場の違いで、選手から批難されたこともあった。「本当に踏ん切りがついたのは1年くらい経ってからかな」。

まだヒラの職員だったころに弥彦の開催中止で選手と交渉の席についたこと、不正競走で競技会を代表して、東京地裁の証人喚問に立ったこと。

60年代後半、競輪界にも知性が求められ始めた。それは選手としてよりも、堀口さんの力が発揮できる場だった。