-新潟県 名選手列伝⑧-
渡辺 茂さん
競輪が始まったのは1948年11月の小倉。本県でも1950年には17人の選手登録があり5月に新潟県競輪選手会が結成され、会 長には倉田浩男氏が就任した。その後、1952年に社団法人日本競輪選手会が作られ、新潟の選手会も1953年には公益法人となった。現在の日競選の新潟 支部となったのは1972年。支部長は根立誠一氏で、平出次男氏、渡辺茂さん(47)を経て、現在の笠巻清貴選手へ受け継がれた。
古武士のような風貌、実家の下田村の屋号から、ニックネームは「ごんちゃん」。渡辺さんには男気という言葉がピッタリとく る。現役時代もマークで鳴らした。「一番思い出に残っているのはKPKになる前の奈良。山野井哲さんと一緒に決勝に乗って、山野井さんが逃げ切り、僕は番 手の外競りをしのいで微差の2着だった。逆に一番つらかったのは、結婚して奥さんが身ごもっていたときに、半年くらい落車が続いて無収入だったこと。あの ときは本気でやめようと思った」。 転機が訪れたのは、選手になって18年目の1993年2月。新潟選手会の役員改選は3年に1回。渡辺さんは支部長に推された。前任の平出 さんは1981年から12年も続けていた。「正直、そうとう悩んだ。38歳と若かったし(全国の支部長の中で下から2番目だった)、引き受ければ自分の練 習はできないことはわかっていた。対外的なことでの苦労もわかっていたから」。 その渡辺さんに踏ん切りをつけさせたのは鎌田登美男さん。「協力するから頑張ってみろよ」。「決心をつけさせてくれましたねえ」と、故人になられた鎌田 さんを思い出すようにしみじみと話した。 1981年には50人になった新潟の選手数は減りつづけ、特に1985年に55期の倉田浩道、藤田茂洋が出てから、67期の川上秀明、高 野聡まで6年も新人がデビューしていなかった。若い選手たちも、年齢がかなり上の選手会の幹部には話しづらい。「今思うとあれが選手会の転機だったのか な」。 まず始めたのはデビューする前のアマチュアの指導を、選手たちが一丸となってやっていくこと。それから今いる選手たちの訓練を週1回から 2回に増やすこと。選手数が少なければ日競選からの補助金も少なく、訓練費も乏しかった。 弥彦で初めての全プロ、ふるさとダービーでもその力は大きかった。支部長を2期6年勤めて選手を引退。今は選手の宿舎として利用される弥 彦競輪会館の館長。「途絶えていた選手と家族の懇談会を2年に1回、するようになったし選手会の雰囲気はよくなったと思いますよ。そうなれば選手たちも意 欲的に練習するようになるしね」。自分の練習はやはりできませんでしたと振り返る渡辺さんだが、新潟の選手会にはいいターニングポイントとなった。 |