-新潟県 名選手列伝18-

高井 俊幸さん

高 校時代に自転車競技をやっていて、プロになった競輪選手が多いこの世界。高井俊幸さん (50)は見附市出身で、長岡工高のときは陸上部。3年のとき、県大会に初出場した駅伝チームのメンバー。社会人を経て、競輪界に飛びこんだ。1977年 10月に40期生として千葉からデビュー。翌年には新潟へ。引退は97年8月。現在は弥彦競輪の検車員として従事している。

月収100万円を夢みて、 高校を出て、会社をやっていたが、折からのオイルショックで千葉へ。そこでお客として競輪に出会った。そのとき21歳。生まれて初めて自転車でバンクを 走ったのは76年の1月。「風を切る音が気持ち よかったのを覚えている」。 選手になるには年齢の上限があるため、チャンスは3回。でも春の試験に受かってしまった。

デビューは小田原で3着、2着、6着。当時、月収が3万円の時代、1日で4万5千円を手に入れる。賞金が書いてある出走表を見ながら、選手の宿舎で、 「うれしくて寝られなかったよ」。しかし、「選手としてやっていけるとは思ったけど、強くなれるとは思っていなかったね」。練習をやること、やれる体力も 含めれば、すべてが素質の世界だ。「だから長くやっていこうと…」。練習はやった。

年に3、4回は風邪を引く体。「しかも、熱が出ない風邪のときは、背中がしびれたようになり、本当に苦しかった」。自他ともに認める「虚弱体質」。調整 してレースに参加することもほとんどなかった。「だって調整なんか聞いてなかったもん。自分に余裕がないから、もっとやらなきゃと思ってやる。だから競走 のときに疲れる。3日目に1着というのが多い」。そういえば、引退した弥彦の開催でも7着、3着、1着。

ケガもした。苦い思い出は30歳代でB級に落ちたとき。 大本命を背負った松戸。スタートして、右手首に激痛。右手をハンドルに乗せた状態で外競りをして、最後に体がすくんで9着に飛んだ。引退の引き金となった のは足首の炎症。引退レースで1着が取れるのだから、まだやれたのにと思う。

面白いのは9番手からの1着。デビュー翌年の取手。最終1角で9番手。「みんな外へ行って、インまくりが決まった。武雄でもやったし、33バンクの 富山 でも決めたことがある」。最終の4角を回ったときに、届くと感じると言う。そんなときは自分が踏んでいくコースが見える。

そうそう、月収100万円は達成したんですか?「27歳か28歳のときかな、1カ月だけだったけどやったよ」。