-弥彦競輪50年の足跡-
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来年で弥彦競輪は施行50周年を迎える。これにちなんで平出次男氏(元日本競輪選手会新潟支部長)の蔵 書を参考にして、今回から連載で新潟県競輪選手会の歩みとともに、弥彦競輪50年の足跡を紹介することにした。
ご存じのように競輪は昭和23年(1948)11月20日に福岡県の小倉で初めて行われた。それから約1年5カ月後の昭和25年4月29 日に新潟県営として弥彦競輪がスタートを切った。場所は大正8年(1919)に日本初の400m走路として完成した国内では公認陸上競技場第1号の弥彦陸 上競技場の跡地。 競輪がスタートした昭和23年の登録選手数は229人(女子2人)だっが、その約2年後の昭和25年には6279人(女子605人)にま で急増した。また競輪場も全国63カ所にまで増えた。
昭和25年4月にさらに17人(根立誠一、岸本実、長谷川春男、長谷川三春、樋口賢治、佐藤文治、織原昭三、岩島治雄、飯津武、堅田功、 高倉光男、女子=箱田芙美、倉品ミヨ、駒沢節子、高田慶子、膳明美、金塚桂子)が登録。そして同年5月に新潟県競輪選手会(会長・倉田浩男)が結成され た。 全国各地で賑った競輪だが運営のほうは思ったほどでもなかった。弥彦競輪は昭和25年度に3回開催したが、予想外の赤字を計上したため新潟県は同年 7月 に開催権を放棄することを決定した。そのため弥彦競輪は廃止の危機に立たされたが、弥彦村の関係者の努力によって全国唯一の村営による競輪、弥彦競輪が誕 生した。 そして昭和26年5月1日に弥彦村営弥彦競輪の幕が切られた。この年の3月に級班制はA・B・C級の3層からA・B級の2層に、また女子選手はB級 待遇に 改められた。そのため普通競輪ではA級4レース、B級8レースの12レース制が主流だった。その後、層別はA級4班、B級4班制となり昭和42年度まで続 けられることになる。 (つづく) |