-弥彦競輪50年の足跡-


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前回は弥彦競輪の誕生と新潟県競輪選手会の発足をメーンにして紹介したが、今回は昭和27年~35年度 の弥彦競輪と県選手会の移り変わりなどを紹介する。

昭和26年に施行権を得た弥彦村は27、28年度は年間8回の開催、そして29、30年度は年間10回の開催となった。これによって赤字経営も一転して 黒字へと好転。そうなると31年度に新潟市が参加し、弥彦村10回、新潟市2回となり現在の年間12回開催で行われることになった。そして32年度には新 潟県が復帰。さらに吉田町、分水町、岩室村が三町村共営競輪組合を設立。これによって弥彦村6回、新潟県3回、新潟市2回、三町村1回が34年度まで続い た。

競輪廃止の危機

その34年6月に世間を揺るがす事件が起こった。場所は千葉県の松戸競輪場。本命、対抗の選手がそれぞれ敢闘精神欠如といえる競走で着外 に沈んだ。そのためレースに納得のいかないファンが暴動的な騒ぎを起こす結果となってしまった。

昭和25年には鳴尾事件があったし、松戸事件の後も他場や他競技でも同様な事件が起こったため、全国紙の社会面のトップ記事になるまでに問題は発展し た。さらには国会にまで及び、公営ギャンブル競技(特に競輪)存廃の検討までなされた。幸いにも最悪の廃止という事態は免れたが、施行者は35年7月1日 から通常の1日12レースから1日10レースの自粛開催という厳しい措置を取らされる形となった。

弥彦競輪も新潟県が施行権を放棄する危機に立ったが、村の財政の軸ともいえる競輪事業を根絶させるわけにはいかない弥彦村の強い要請から弥彦競輪は存続 することに決定した。

選手会を社団法人化

さて新潟県選手会だが、昭和27年には小川貞夫、平出次男、和田浩八が入会し総勢23人になった。そして28年1月には社団法人として新 潟県競輪選手会を設立した。

事務所を新潟県庁分館内に置き、理事長に倉田浩男、副理事長に小川進を選出してスタートを切った。さらにその年は上竹雄彦、矢引貞正、関山幸二、堀口 轟、佐藤フミが入会。29年には小川良雄、遠藤浩。31年には高橋信明。33年には斎藤正三。35年には内藤律子、上竹三男が入会したが、それに伴って退 会者もいて、新潟県選手会は20数人の小世帯だった。

昭和35年度の新潟県選手の平均獲得賞金は年間45万円で当時のサラリーマンの年収を考えれば高収入だったし、魅力的な職業であった。ただ、競輪事業に 関しては思ったほどの収益もなく、最高で63あった競輪場も昭和28年の松本競輪場を最初に、徐々に廃止や休止のところが出てきた。
(つづく)