-弥彦競輪50年の足跡-

( 4 )

昭和45年に開設20周年を迎えた弥彦競輪は、初めてトップクラスが集結する記念競輪を開催するまでに 至った。今回は昭和46年から55年までの弥彦競輪と新潟県選手会の動きを、競輪界の流れとともに紹介する。
経済の高度成長とともに成長し続けてきた競輪界だが、昭和46年ごろから伸び率が低下してきた。売り上げは微増しているとはいっても消費者物価指数を考 えると、実質はダウンといえる状況。さらに輪をかけたのが入場者の低減傾向。昭和30年から増加した入場人員も昭和
48年あたりをピークに下降。この間の入場者の伸び率も3倍程度で、中央競馬の7倍、地方競馬、競艇、オートレースの5~6倍に比べてみても見劣る。その 最大の原因は20~30代の若年層に支持されなかったことといえる。競輪界は団体が複雑なため一本化して改善策を見い出すのは難しく、低迷期が続くことに なる。
昭和55年 中野浩一
弥彦競輪に初登場
弥彦競輪も同様の状態が続くことになった。昭和51年には打開策の一つとして前橋競輪の冬季場外(12月~3月)を始めることになる。

そして弥彦競輪をフィーバーさせたのが昭和55年、弥彦初見参となったスーパースター・中野浩一だった。開設30周年記念という舞台も整っていたし、ス タンドも超満員に膨れ上がった。売り上げなど、これまでの記録を塗りかえ、次年度は4号賞金場から1号賞金場になるまでの盛況ぶり。まさに中野浩一は弥彦 競輪の功労者ともいえた。その後何度か弥彦競輪へ出走した中野だが、そのフィーバーぶりは現在の神山雄一郎や吉岡稔真などはるかに及ばぬものだった。

新潟県選手会といえば、46年に倉田競一、平原康広、高田秀明、渋川久雄、47年に笠巻清貴、古沢敏朗、遠藤清彦、天野康博、48年に山野井哲、49年 に大矢憲三、天野尚、美濃井栄(現阿部)、50年に庭野博文、渡辺茂、51年に梅沢守、広瀬竜一、青木幹雄、山岸幸次、
52年に金子公徳、須佐泰三、池田哲男、高橋弘治、皆川正、53年に原田則夫、本間英樹、小林俊幸、石川四郎、山崎誠一、54年に中川聡志、55年に小川 隆が入会。

46年デビューの渋川、47年デビューの笠巻、遠藤、49年デビューの美濃井(阿部)、そして53年デビューの原田はB級10連勝で華々しいスタートを 切り、地元のスターとして君臨。特に41期生の原田は全国的な人気を集めるほどの活躍だった。

昭和53年 天野康博
オールスター優勝
昭和53年にはダービーに渋川久雄が県勢としては初めて特別競輪の決勝に進出。その余勢を駆ってか、西宮のオールスターでは天野康博が特別競輪を制覇し た。
(つづく)