-弥彦競輪50年の足跡-

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施行50周年を迎えた弥彦競輪。前回は昭和 年までの歴史を紹介したが、ここは再度53年の西宮オールスターで優勝した天野康博を詳しく取り上げながら、56年から60年までの新潟選手会を競輪界の 流れとともに紹介する。

昭和53年9月、第 回オールスター競輪。新潟からは天野康博、佐野正晴、渋川久雄笠巻清貴、天野尚の5人が出場。決勝は中野浩一、福島正幸、高橋健二、国持一洋、渡辺孝夫、 堤昌彦、緒方浩一、桑木和夫に天野を加えた9人で行われた。レースは中野と高橋が先行争いし、最終的に中野が主導権を握った。高橋が中団になり、福島 天野は最後方。最終2角から福島が8番手まくりし、天野が差し切った。この時のことを「前日の夜に福島さんが頑張ると言ってくれたので全幅の信頼を寄せて いた。レースでも緊
張感はなかったし、4コーナーでは勝てると思った」と振り返る。

県勢としては初の快挙に、地元紙でも1面を飾った。地元に戻っての歓迎ぶりは盛大で、「いろんな所で祝勝会をやってもらいました。とにかく いい思い出ですね」と語ってくれた。その後も原田則夫や阿部康雄が特別競輪の決勝に進出したが、第二の天野までには至っていない。

昭和58年 新層性で
近代競輪が幕開け

さて、昭和56年からの競輪界といえば上昇線を描いていた売上が初めてダウンするという危機的状況が始まる。その打開策として検討された のがKPK(競輪プログラム改革構想)だ。これが58年4月から現在に至っている新層別制度。A級5班、B級2班制
からS級3班、A級4班、B級2班制に改革。これによってレースでの選手の脚力の差を減少させ、低配当のレースも解消された。さらには55年フランスで世 界選プロスプリントV4を達成した中野浩一の功績で、競輪も世界選種目に採用され、国際化の波に乗った。そして 年に初めて国際競輪がスタート。まさに近代競輪の幕開けともいえる時代だった。

昭和58年 中川、庭野
世界選へ初の参戦

新潟選手会のほうは56年に大橋潤市、小林政春、山崎純一、山崎登、荒川一成、佐藤幸重(福島より移籍)、57年に金子直樹、58年に本 井謙吉、山崎保、59年に小林昭二、岡村馨、60年に倉田浩道、藤田茂洋が新たに入会。58年に中川聡志、庭野博文のコンビでスイスで行われた世界選ドミ フォン種目で初めて出場。そして59年デビューの小林は原田則夫に続くスターとして期待された。

(つづく)