-弥彦競輪50年の足跡-

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弥彦競輪物語も今回から昭和の時代を終えて、平成の時代に入ってくる。昭和60年には競輪競走の超目玉といえるKEIRINグラン プリが新設されたようにビッグレースが増して、ファンをひきつける競輪になった。今回はKEIRINグランプリや、ふるさとダービーなどが誕生した経緯 や、平成3年(91年)に弥彦で行われたふるさとダービーなどを、県選手会の足跡とともに紹介する。

昭和60年に四大タイトルの日本選手権、オールスター、高松宮杯、競輪祭に続き、全日本選抜が誕生。これは過去に行われていた全国都道府県選抜を16年 ぶりに継承する意味で発足した。そしてこの年の12月にKEIRINグランプリがスタートする。通産省からは競輪王座決定三番勝負でできないかと提案され たが、開催日と記念競輪への影響があるため一番勝負に決定。参加9人の選考はS級1班で前年の競輪祭から本年のオールスターまでの五大特別競輪の優勝者、 世界選手権プロスプリント優勝者、及びS級勝率、勝利数、獲得賞金1位者とし、9人に達しないときは該当選手以外のS級上位者を順次選抜という内容で決定 した。第1回は井上茂徳、清嶋彰一、滝沢正光、佐々木昭彦、高橋健二、中野浩一、尾崎雅彦、山口健治、伊藤豊明が出走し、中野浩一が初代チャンピオンに輝 いた。

平成3年6月
ふるさとダービー弥彦開催
平成元年に特別競輪が開催できない地方の競輪場でもビッグレースをという施行者の要望が通って、ふるさとダービーが新設された。こ の新設 に大きく貢献したのが弥彦村だった。故本間道雄前村長の遺志を継いだ関係者の努力が実った結果だった。初年度は広島、2年目は福井、広島で行われたが、開 催準備が整った平成3年6月に、ついに弥彦でも初めてのビッグレースが開かれることになった。全国的な発売だけに過去にない盛況ぶりだった。俵信之が直線 で抜け出して見事に優勝したが、ふるさとダービーらしく、最終日のレースでは地元新潟の小林昭二がラインのアシストを受けて初勝利を挙げている。
6年、11期も
新人選手が不在
平成3、4年はふるさとダービーで盛り上がった弥彦だったが、県選手会にとっては一番厳しい時期だった。昭和60年にデビューした倉田浩 道と藤田茂洋を最後にピタッと新人選手が生まれなくなってしまった。この時代が約6年、11期も続くのだ。特に藤田などは「新人が出てこないのでいつまで たっても先輩のお茶係ですよ」と嘆いたものだった。このときは施行者を筆頭に関係者は真剣に新人発掘に向けて考えたものだった。

(つづく)